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現代的と伝統的   (その2) [評論 等]





 三井葉子詩集「夢刺し」(思潮社刊)

 三井氏は、あたかもこのような現代詩の一

般的傾向にさからうようにして、自分の魂の

裸身をうたっている。女としての性のかなし

さ・はかなさを執拗にうたいつずけてい

ると言える。





 雨だれを受けるたびに

 傾むく夢は

 傾むくたびの身の軽さをかなしんでいた。

 ふり腐れてゆくかなしみの

 裾も濡れてゆく

 雨だれのしずくのひとしずくのおもたさを

 わたしは連れてはゆけないけれども

 水の縁を越えるばかりのゆらめく部屋に

 ゆらめいて待つひとのひざのうえまで

 なにを置き残して帰りつく夢のままの世を。





 これは「雨だれ」と題する作品であるが、

「ゆめ」とうつつの境を変幻自在に出入りし

「世」を「夢のままの世」と観じ、そのよう

な「世」にあっては、うつつとして在る「部

屋」も「ひと」も「わたし」も一切が「ゆら

めいて見える、したがって身の「かなし

み」をたぐることを通じてしか、自己の実存

を確かめる手だてはない、とする三井氏の態

度を端的に表している作品のこれは一つと

みてよかろうと思う。三井氏の独特のうたい

口やイメージの色どりもここには備わってい

る。この詩集の冒頭に「赤まんま」と題する

作品があり、そこに次のような詩句がある。

「石段をみえがくれする遮蔽物を越えてはゆ

くと見えるばかりの/赤まんまの咲きがけに

/ひと息の息のまに/赤まんまのはな咲いて

いる。」

 中野重治はその詩「歌」の中で





 お前は歌ふな

 お前は赤ままの花やとんぼの羽根を歌ふな……すべてのひよわなもの

 すべてのうそうそとしたもの

 すべての物憂げなもを撥き去れ……





 とうたい、更に後年この作品

に触れて次のように書いている。「私がそこ

でそれらをかって歌わなかった仕方でうたっ

ているのを見ぬ云々」と。中野の提起した問

題は詳細に検討しなければならないが、三井

氏は「赤まんま」をまさに「ひよわなもの」

「うそうそしたもの」そのものとして、か

っての歌がうたったその内質と歌いぶりに於

て、もう一度うたおうとしている。自己の主

体に於てうたうことによって、ひよわなもの

うそうそとしたものとされたそれらが、確か

にそのようなものでしかありえないかどうか

を確かめようとしている。繰り返して言えば

三井氏は「ひと息の息のまに……はな咲」く

ものとしてそれらをうたおうとしている。

 三井氏はこの作品に於てのみならず「かな

しみ」とか「さびしさ」「ひそとして」「わび

て」「泣き重ねて」「嘆き」「ゆめまぼろし」

「切ない」「あわれ」といった表現をしきり

に用いているが、これらの嘆かいの底にはお

そらく、生の有限性に関する三井氏の認識が

あるのにちがいない。実在の諸相の根源に凋

落のさまを見てとり、すべてを移ろいゆくも

のの姿に於て捉え、はかなしと観ずる認識で

ある。この認識は伝統的なものであり、短歌

をはじめとするわが国の伝統的文芸の底流と

なった思潮であるし、ひと頃「短歌的抒情」

として否定されたものでもあった。それらを

承知の上で、むしろ承知しているが故にかえ

って三井氏はこのような認識に執しつずけて

いるように私には思われる。そしてそこに私

は三井氏のなみなみならぬ現代批判の姿勢

を感じとるのである。











 以下、その3へ続きます。



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