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書附け [詩集 井戸]




   書附け


わたしの井戸は小さく、水は涸れやすい。それでも少しずつ少しずつ水はわ

き出て、長い年月の間には、自然と井戸の底にたまるようになる。わたしは、

自分の底につるべを垂らしては、たまった水を汲みあげる。

 五年近くの歳月をかけて、わたしが汲みあげた水は、こんなにもそまつな、

そしてわずかな量でしかない。

  一九六三年八月二十三日


                                         笹原常与











タグ:書附け

カリュアテイデ [詩集 井戸]


   カリュアテイデ


「重み」そのものの姿で いっしんに

空の下に立っている

はねかえる弾力をためて わずかに身をたわめながら

いつまで待っても思いきりはねかえる機会と期待を

先へ先へとのばされつづけたバネの苦痛の姿のまま

いくつもの夜をくぐり

いくつものひるまの深さをくぐりぬけながら

永遠の出はずれに空に洗われて立ちつづける

立ったままいのち朽ちてゆく女体人柱(カリュアテイデ)の女たち



ほっと息を吐き 力をぬくことも

自分を消すこともできずに

きり際限なく立ちつづける



(おまえたちが そうして はるかな大地のはてに

立ちつづけているために

ぼくらの「生」もさっぱりしない

肩に何かがつかえているように

払いきっていない負債でもあるかのように)



女体人柱(カリュアテイデ)の女たち

なにゆえに そうして立ちつづけるのか

体の片側から片側へと

翳(かげ)りをずらしてゆくように支点を変え

重みを散らし 身をかわしては耐えつづけたはて

すべての身のゆらぎと余裕

どのようにわずかな身づくろいも姿態(ポーズ)のゆとりも脱ぎ落し

今は中心そのもので ゆれもせずじっと支える以外にない

手をふれかねる危険な姿



それほどに体をくずすことも 力をぬくこともできぬ

どんな重みが

おまえたちの肩にのっているのか

それはどんな罰か?

「神」ほどにも説明のつかぬ深さか?

つかみどころのない大きさか?



かつておまえたちの上にのっていた神殿も

そこに住んでいた無のように姿を見せぬ「神」も

おまえたちとの根(こん)比べには耐えきれず

今はもう あきらめて 自分から

きれいに崩れ落ちてしまった

そして自然と時は

おまえたちを横たわらせてやろうと

あたたかい思いやりから

晴れあがった空だけを残していった

そよ風は古代そのままの海の匂いをはこびながら

おまえたちの耳もとに来てやさしく告げる



「もうお行き

なにもかもなくなってしまったのだよ

おまえたちの上に 今は

支えるべき何の重み 何の罰

どのような『神』もいないのだよ

ただ空と深い忘却とがあるばかり

さあ 早く行って横になっておやすみ

そしてむだに過ごした若さをとりもどし」



ギリシャの空は今日も晴れて深い

心にまでしみる悲しみのように

けれども眼には見えぬどんな重みが

どんな罰 どんな掟てが

そしてどのような自分の「神」が 今もなお

おまえたちの上に位(くらい)しているというのか



女体人柱(カリュアテイデ)の女たち

払いのけられぬ重みの下で

成熟は若々しい女体をわずかにくねらせ

べそをかいて悲しんでいる

「いのち」はほとばしり出る口を失い

ふくらみそめた乳房は

満ちてきた海をたたえたまま

おまえたちの「女」からも忘れられている

遠い満ち潮の音

そしてもっと遠く ひき潮の音



おれもせつなくなってくる

中途半端な立ちようをした姿を思うと

いっそう苦痛がつらくこたえてくる

せめて立つなら立つでしゃんと腰をのばしておくれ

いっそ じだらくに思いきり身をくずしてみてくれぬか

重さから肩をはずして

雨がこぼれ出るように

自分の外へ一歩を踏み出してみてくれぬか



だが女体人柱(カリュアテイデ)の女たち

律気なおまえたちは 立ちつづける

筋肉一つゆるめもせず

苦痛そのものの姿で

長い時間を耐えつづけたはてに

いつか身軽になる時があるとでも信じているかのように

何のあてもないのに









通訳者 [詩集 井戸]


   通訳者


通訳者は

物陰や木のうしろに隠れている井戸のように

かげり深いたくさんのことばの水嵩や

母音の響きをひそめて

ぼくらの耳の奥 眼の奥にしゃがんでいる



そして眼に見えないものの姿や形

耳にきこえない声をさがしあてては

物の落ちた水音のような響きをもって

その名を呼ぶ



呼ばれたものは 

水をくぐるように

通訳者の発見の中を通ってゆき

今迄見えなかった姿を

物蔭からあらわす



やがて洗われたイメージは

水の深みから汲みあげられたばかりの洗濯物のように

しずくをたらしたまま

まぶたの裏の空に通訳され

母音の響きとなって耳の中にこぼされる



血ににじんでほどけたガーゼの下から

しみ一つない真新しいガーゼが呼び出され

ぬかるみによごれたまま

ぼくらの眼の中に入ってきたびしょびしょの雪の下からは

白い雪のイメージと固いつめたさが呼び出される



傷つき疲れた姿で 倒れるように

眼の中を通ってぼくらの深みに降りてきた人影の中から

傷つかぬ人間の姿と 人間の体温がよび覚される

すべてのゆがんだものの中から

ゆがまぬ姿と鮮かな直線を洗い出す

雲のきれ間から秋空を洗い出すように



彼はどんなにたくさんのことばをたくわえているのだろう

ことばの陰影や響き 色あいを

一つ一つまちがいなく飜訳する彼は

どんなに厚い黒表紙の辞書だろうか

狭いものの中から広さを飜訳する彼は

どんな広い世界なのだろうか



それでいて姿を見せたことのない彼は

測ることのできない深さそのものなのだろうか

とらえにくい陰影だろうか

それとも無風だろうか

区切りのない広さそのものだろうか



空が外に

ぼくらの眼にしみるほどに晴れている時など

ぼくらの眼のすぐうしろに

彼が出ている気配が感じられる

耳のすぐ一枚うしろで耳を澄ましていることがある



けれどもその姿を見きわめようとすれば

ぼくらの眼には今迄通りの空や景色が映っており

耳には耳鳴りのようにそよ風が吹いているだけだ



姿は見えないけれども

彼はぼくらの中のどの路のはずれよりも

ずっとはずれに

初夏のひろがりよりももっと遠くに

ひそみつづけている

そして物陰や木のうしろで

いよいよ深く澄んでゆく井戸のように

しゃがんだまま

さがしつづける

すべてのものの奥にひそむ真実を



さがしあてては

水の響きのようにすき透る声で

それらを

ぼくらの眼や耳に そして魂に飜訳しつづける















タグ:通訳者

 [詩集 井戸]




   眼


死んだしまった者の眼が移された

まつげのむこうにのぞいている

誰も足跡をつけたことのないめくらのマイナスの世界に

まだひんやりと生きている深さのままで



死んでしまった者の

人通りの絶えた眼の中のはてしない通りをぬらし

はずれの方へ音もなく

降っていった雨は

そのまま めくらのマイナスの距離をさわやかにぬらしてゆき

所々に水溜りを残し

広場や空はそのままの広さ 一層の青さで

距離のむこうや坂のむこうに沈み

その時町角を横切りかかっていた人影や風は

そのまま 急に明るくなっためくらの世界へ曲っていった



そうしてめくらの眼の奥の方へ

一つの市(まち)がひろがっていった

死んでしまった者の眼が映していた市(まち)が



はじめかげってばかりいた市(まち)

しかしそれは だんだんにぎやかになり

路はだんだん遠くなった

色々な人が 今は亡い人なども晴れた日のように通り

はずれの方でその人たちの遠い話し声などもきこえた



めくらにはだんだんそしてやがてはっきりと見えてきた

死んでしまった者がかつて見ていた世界が

子供の頃のぞきこんで見た

遠めがねの中の不思議な世界のように

めがねをまわしているうちに

不意に見たこともない世界がレンズの先に見えてきたように



そんなはずれを 死んでしまった者は

急にたちのかねばならなかったために

留守の体に戸締りもせず

そして 破れたガラス窓から彼の家族たちが

いつまでも彼をさがしてのぞきこんでいるのにまかせたまま

「体」をぬけ

何処とも知れぬ遠い旅先から帰ってきたように

背をまるめ 西日を肩につけて

他人の瞳に移された自分の世界の奥へ

独りでだまって帰ってきた



かつて生きていた頃出かけていった同じ道筋をひきかえして

曇りの日 晴れた日 夕焼けの日

秋の日 夏の日 人の通らない日

かつて生きていた頃 ひきかえしてくる地点のむこうに

何時もたどりつけなかった距離を残してきたと同じように



今はただ はじめて足跡をつける

深さとやわらかさ 死の青さを踏んで



死んだ者の水たまりのような眼の中に

不意に落ちてきた「死」もまた 一緒に移された

もうめくらでなくなった者の

まつげのむこうに 青空のように



死んだ男は

墜ちこんだ死の深さの中で 立ち去らず

まばたきの奥から

いつまでもこっちを見つづけている












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 [詩集 井戸]




   声

   ーーキシュハヴァシュの山の上に塚を建てよう、
   
   霜のおりた岩と杜松の原に、殺された者のための

   記念碑を建てよう。      「ルーマニヤ日記」


真空のように澄んだ聴覚が

深い耳の奥で一つのかすかな声を汲みあげる

沈黙の井戸を掘り下げた底から

地下水を汲みあげるように



誰もまだ きいたことのない言葉を

今日しゃべろうとした言葉



しかし ふとやんだ風の気配のように

倒れた彼とともに地上から消えてしまった言葉を

何千年も前に一つの喉に用意されながら

喉の奥深くにのみこまれたまま どの耳にも触れず

聴覚の外に行方不明になった海のような声を

ひろがらなかった深いそのイメージを



その声はドイツ語にもフランス語にも日本語にも

どんな言葉にも翻訳することのできない声だ

この世に姿を現わす前に

消されてしまった言葉以前の肉声の故に



その声は叫ぼうとして身をおこしかかった

何千年も前の喉の奥に

そしてきのうも

そして今日も



あらゆる国の野原や岸辺 地平線の上で

出かけた船が帰ってこない水平線の上で

ポンペイの町はずれ

エルベの岸辺 スフィンクスの蔭で

ドイツの塹壕 フランスの塹壕

中国の陣営 日本の陣営で

ドイツ語でフランス語で中国語でそして日本語で

あらゆる国の言葉で



それをきくようにと 耳を用意してすまされていた

ドイツ語の耳 フランス語の耳

中国語の耳 日本語の耳



けれどもそれは消されたのだ

その声を用意してふくらんだ喉

澄んだ眼をひらいたまま死んでいった彼と共に

その声が言葉になる前の静かな時間の中で

聴覚のとどかない世界の中に

そしてその言葉は

ドイツの耳にもフランスの耳にも

どの耳にもとどかなかった



ぼくらは今立っている

地下水の上に耳を垂らして立っているように

深い沈黙の上に

それら言葉にならなかった無数の声のイメージの深さの上に

声がそれぞれの国語で叫ぼうとした同じ一つの意味を

汲みとろうとして



ぼくらの澄んだ耳は

沈黙の深みからそれを汲みあげる

汲みあげては静かにこぼす

そしてぼくらの魂は

その声が叫ぼうとした深いイメージを見る

その声だけが知っている意味と世界をぼくらのものにする



それを組み立てねばならぬ

誰の眼にも鮮かに

そしてぼくらはそれを飜訳せねばならぬ

ドイツ語にフランス語に中国語に日本語に

世界中のありとあらゆる言葉に

置きかえねばならぬ
















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使い走りの子 [詩集 井戸]




   使い走りの子


使い走りの子が帰ってきた。

夕焼けの中から。

髪をふり乱して。泣きそうな顔をして。



何を町で買ってきたのだろう。

いいえ

夕焼けのはずれよりも もっと遠い湖に

どんな青ざめた顔を

落してきたというのだろう。



自分の顔をとりもどしに行くように

暮れはじめると また

使い走りの子は

出かけてゆく。










地図 [詩集 井戸]




   地図

   ーー少年期


      1


人は奥深い距離です

生まれた時の空も 山も広場も水たまりも

水たまりにすずしく映っている顔も

天気も「夢」も みんなそこに住んでいます



乾いて白い地図や

雨があがったばかりのまだ濡れている地図

どの路も鮮かに澄んだ深い空の中に

すっきりと果てが見とおせますが

たどりはじめると何処まで行ってもはてしない地図

人はそのような地図の中の

どれかの路を通ってぼくの前にやって来ます

しかし帰ってゆく彼の後をつけてゆくと

きまって路に迷います

ぼくはいつも独りで

自分の路をひき返してくるよりほかありません

やっぱりぼくには 人は歩き尽せない広い国です



時々「夢」が 人を地図の外へ連れ出します

外はまっ青な天気

漂白された干し物が白くひるがえっています

留守になった地図は 涼しくかげり

彼の記憶の中に長年住んでいた人々がそこを通り

消し忘れた太陽が蒼くともっています



   2


ぼくは色々な地図に迷いこんだものです とりわけぼくは病人の地図によく迷

いこみました 病人の瞳の中に続いている路を 地図の奥へたどっていきます
 
 病人の地図は何時も 蔭の中にひっそりひろがっています そして蔭の中は

何処まで行っても留守です 夏休みの教室や校庭のように そして病院の長廊

下のように消毒の匂いだけがひんやりとただよっているばかりで 人の気配は

ありません 人々は忘れた「健康」という宿題をとりに 夏の外へ大急ぎで戻

っていったのでした



めくらの地図にも迷いこみました そこには何時も 柔かな雪が音もなく降り

 そして積もっています 木々は遠い気配に耳を澄まして じっと動かずに立

っています



気狂いの地図 それは不思議な遠い世界です ぼくらの祖先が「人間」になっ

った時 彼らの祖先はちがう「人間」になったのです ぼくらの祖先が「人間」

の眼で世界を見 そしてそれを自分の地図に沈ませた時 彼らの祖先はちがう

「人間」の眼で別の世界を見 それを彼らの地図に透きとおらせたのです 彼 

らはぼくらの見えない地図を持っており 彼らはまた ぼくらの中に ぼくら

の気づかない地図を 例えばぼくらのうしろにひっそりと拡がっている地図

いつかはぼくらを連れ去ってゆく「死」という奥深い地図を すでにこっそり

と見ているかも知れないのです



死んだ者の誰も住んでいない地図 そこにはいつも 人の溺れた川の匂いや

カニの匂い 日なたの匂いなどがただよっています そして余白の多い地図が

 水に濡れた路をはじの方に残して 拡げられたままになっています 気づく

と追憶のように その地図は消え ぼくは 白い風のかすかに吹く路のはずれ

に自分の影を長く曳いて独りで立っているのでした



   3


多くは 蔭の中に拡げられたそのような地図の奥を

ぼくは耳を澄まして歩きまわりました

問題が解けずに居残りさせられた落つきのない生徒のように

時々蔭の外を夏が素足で通り過ぎる気配がし

雨は空の深さや乾いた舗道を濡らしては

降り過ぎてゆきました

ぼくのしんと澄んだ期待や疑問を濡らし

耳の底によどんでいるぼくの「生」を

濡らしてゆきました



やがてぼくは すべての疑問に答えるために

そしてそれを自分の地図に書きこむために

日陰の奥から外の世界に出

まぶしい夏の日盛りの中に

余白だらけの地図を拡げ

未知の世界の奥へ歩いてゆきました











タグ:地図

涙2 [詩集 井戸]



   涙 2


それは深い川だ。それをひそませている人の体は奥深い。だがそれよりも も

っと深いところを それは流れている。どこにそれ程の水量はみなもとを発し

 いつから住みつき そしてどういう地図をめぐり せせらぎの音もたてずし

のびやかに流れ どんなよどみに注ぐのであろうか。

皮ばった老人の乾いた領土のいかなるはずれに それ程の深みがあるのか。小

さな子供の小さい地図の どの辺をそれ程に深い川は流れているのか。ふしく

れだった男のけわしい無口の表情の下 どの辺まで降りていったところに そ

れ程の水嵩は地下水となってしまわれているのか。(レントゲンで透(すか)してみて

も 広々としたアフリカ大陸のような景色が見えるだけで 姿は見えない)



ひるま 青空や木立の繁みを映したひとみのずっと奥を それはひんやりと流

れ 夜 ねむりの下を 涼しく 静かにしずかに流れている。どこからしのび

こんできたのか 時に夢が流れを下ってゆき どこをめぐっていたのか 水平

線のかなたに姿を消したはるかな昔の難破船が通ってゆく。時にまた魂が水を

深々と染めて下ってゆく。



その深さを測ろうために 人は時として深みにむかって 吊り糸を垂直にたら

す。だが一つとしてその深みに達したものはない。時としてまた 人は小石を

投げる。遠いかすかな水音によって深さを測ろうために耳を澄す。だが静寂は

小石をのんだままこたえない。かえって 静寂の奥深さが 測り知れぬ水の深

さを人に知らせる。



どのような日でりにも蒸発することなく それは深々としてあり めぐってき

ては去る季節にも 外界の雨期 乾期にも 同じ深度を保って流れつづける。



人が互いに向いあっている時 互いに表情に見入っている時 また笑いさざめ

いている時彼らの横顔のはるかな奥を遠く迂回して流れ 失ったもののとりか

えしのつかなさに われを忘れておもてを走っている時 突然の人の死に青ざ

めて立ちつくす時 そしてまた 何ものかにいっしんに見入っている時 それ

らの表情の下を 川は次第に水嵩をましながらも しのびやかに流れている。

行き倒れた者の留守になった体の奥を 出口を失っていまだに流れている涸れ

そうな川 やがてあふれるであろうその時にいまだ気づかず 眼の奥の遠い空

の下を流れている かえりを待っている者の深い川



やがてそれらのきわどい静止の一瞬が崩れ去ったあと 不意にせせらぎの音は

近づいてくる。するともう川は ひとみのすぐうしろに水嵩を増している。ひ

とみをひたしてみるみる水位はのぼってゆく。あふれ出た水は 人を 人の心

を濡らしてゆく。



やがて せせらぎの静まったあと あふれ出た水跡を二筋三筋頬にひき 川は

どこへともなく姿を消している。人は まぶしい日ざしの中にうなだれたまま

とり残され ふたたび澄みきったひとみの中に 空や木立はふるえずにしんと

立ち あふれ出たことによって一層かげり深くなった人の体の奥を 涙の川は

深々と流れている。














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 [詩集 井戸]



   涙

   ーーそのモノローグ


おれは見てきた

と言ってひとしずくの涙が話す



眼の裏にある遠い世界を歩いてやって来た

誰もみたことのない海

眼の裏に沈んでいる深くてつめたい海を見てきた

それから はてしない昿野を横切ってきた

入って行った者は誰も

もどってきたことのない眼のむこうにひろがる世界から

眼に涼しく映っている木立や蔭の重なり そして空を

少しも乱さずそのままにして

おれはオルフォイスのように

そっと独りで帰ってきた



深々としてつぶらな眼

それは実数と虚数にあるゼロ地帯のようなものさ

はっきりした境界なんてものはないのさ

そこを通る時は沈黙の中を通るように

ただひんやりするだけさ

けれどもそこを通り過ぎて向うに現われると

すべてのものはもう姿を変えている



眼の中を海は景色を濡らさずに静かに通る

水にひそむ深さをそっと運び

深さと難破船を眼のむこうの世界に置いて

また眼の中を通ってひいてゆく

遠く水平線のかなたに

満ちてきた時よりもさらに遠く 透明になって

それはどこかにあるはずの海だ

けれども眼の外のどこにもない海だ



女の眼の中に青ざめた男の顔が投げ込まれ

しばらく溺れていたが

やがて悲鳴も残さずに沈んでいった

その男は今も眼の裏の世界に 青ざめた顔をして生きている



眼の中を通って 夕焼けは

むこうの世界に限りなく一面にひろがる

白い路は むこうの世界にはてしなくつづく

電線は北の国の方までつづく



眼の中を通って長い汽車の列が入ってゆく

だまって腰かけている人々の姿を窓辺に映し

国境を越えてはてしない平原に入ってゆくように

汽車は白い煙を青空に長くなびかせて

眼のむこうにひろがる世界のはてにむかって

ことこと走ってゆくだろう



眼の中を通って雨はむこうに静かに降り進んでゆく

外が晴れあがったあとも むこうの世界だけに降り

人知れず舗道を濡らしている

風は眼の中を通って見えなくなる

けれども眼のむこうの世界の路に

音もなく枯葉が散っている



眼の中の路を歩いていた人影は

まばたきとともに姿を消す

しかし眼をあけると

いつのまにか眼の裏の世界を歩いている

四辻を小さな姿で曲ってゆくのが見える



眼の中を通ってめくらは迷わずに路をたどる

眼の中を通って後手に縛られた囚人たちは

自由になって彼らの故郷へと帰ってゆく

眼の中を短い葬列が通ってゆく

そして死んだ者の体は 眼の裏の大地にねんごろに埋められる



時として何も通っていない時

眼の裏の世界には ただ空だけが深く澄んでいる



すべてのものが眼を通って入ってゆく

しかしすべてのものがそこに沈んでいる故に

人の眼は乾いた夏の中でも奥深い色をたたえている



おれは その世界の深みから

遠い距離を歩いてやって来た

そしてそこからもどってきたのはおれだけだ



おれは 手にとれば消えてしまうひとしずくだ

しかしおれは その小さな世界に

一つの宇宙を構築するだろう












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見えない者 [詩集 井戸]

   


   見えない者


人の中からぬけ出てゆく者がいる

澄みわたった空の下で そよりと音もさせず

涼しくぬけ出てゆく



さえぎろうとして立っているどんな透(す)ガラスをも

すらりとくぐりぬけて

影が 部屋の中からガラスの向う側

明るい外の世界へ出てゆくように

それは人の中からぬけ出てゆく



その時も空は同じ深さ

その時も木立はざわめきもせず

人の眼の中に映っている

すべてが静かさを保ったままだ



人の体のどこかに

誰にもまだ発見されずに残っている素足のような世界

どのような陰影の濃い言葉によっても

言い表されたことなく

いつも言葉のうしろにとり残される世界

こぼれ落ちる海

その者自身によっても気づかれたことがなく

その者の奥にひろがっている領土

人称によって表されるかぎりの人間の誰にも

入ってゆくことのできぬ領土へ

彼は涼しくぬけ出て涼しく入ってゆく



檻の中に飼いならされた動物

しかしその動物の奥に

飼いならされぬまま住んでいる野生の動物が

人の眼の前を 誰にも気づかれずに

かつて棲んでいた原野の方へ

その広々としたひろがりを眼にうかべたまま

檻目をくぐりぬけて出てゆくように



晴れわたった空の深みに しんとして立っている木立が

繁みも足元の蔭の濃さもふるわせずそのままにして

その木立に重なって立ちながら

別の世界の中に生え 別の空に枝を延ばしている見えない木立

誰によっても発見されたことのない別の木立と

不意にすらりと入れかわるように



柵に囲まれた牧場の中で

草を食べている馬の たれたうなじから首筋をのばし

一声いなないて

鳴き声を牧場の空にいつまでも残したまま

柵で区切ることも 囲いの中に収めることもできない

広々とひろがる眼に見えない領土へ

柵を越えて出てゆくように

見えない者は 人の中からぬけ出てゆく



彼はぬけ出すとすぐに姿を消す

こぼれたインクがインク消しに吸いとられるように

誰にもまだ発見されたことのない地図

人にとっては白地図としか見えない地図をたどって

不思議な世界 未知の領土へ入ってゆく



彼は鋭い耳を持つ

耳は冴えきった聴覚をその底にひろげている

そして彼は

さまざまな声の中に一つの声をききわける



人のなげきの姿 人のいたましい姿

人間からこぼれ落ちた者の喉の奥から

かすかに伝わってくる声をききつけては

とりわけ彼はぬけ出てゆく

火が火に呼ばれるように

血が血に呼ばれるように

谺が谺に呼ばれるように



人と人とを区切っている眼に見えない境界をも

やすやすとくぐりぬけて

どんなに遠い距離のはて

言葉もたどりつくことのできない遥かな領土

見ず知らずの者のところへも

海を渡り 幾つもの地平線を越えて

同じ体温を持つ彼らだけが知ることができ

彼らだげが入ってゆけるところへ

出かけてゆく



そしてどんなに遠いところからも一日で帰ってくる

誰にも気づかぬ眼に見えぬ姿で

誰によってもまだ発見されたことのない 自分の奥の世界へ

ぼんやり立っている言葉のうしろにひろがっている領土

ぬけ出すたびに いっそう

はてしない奥ゆきでひろがってゆく未発見の領土へ

彼はひっそりと帰ってきて

また身を横たえる






















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