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あたたかさ・純粋さ   (その5) [評論 等]





 「私の見ているものは、知恵と本能と神へ

の目覚めの中で苦悩する自分自身の心です。

どんなにそれが非情であっても見つめること

によってしか詩は生まれない。」(あとがき)

塔氏は自分の眼を精いっぱい開き、すべての

ものに全身で対している。と言える。私達

は、とりわけ私などはある年数にわたって詩

を書いてきた結果として、ものそのものにじ

かにむかい合いそこから得た直接的な感動に

もとずいてひたむきに作詩する態度をとかく

忘れてしまい、ありあわせの知識にもとずい

て通りいっぺんの作品を書いてしまいがちな

のだが、塔氏にはそのような弛緩した態度は

見られない。そして塔氏の見つめることのひ

たむきの底には、それを支えるものとして

の精神の強靭さがひそんでいる。





 すべての汚れの中の

 汚れない意志

 それは

 作ることのできないもの

 作った形では感じられないもの

 作ったものにはないもの

 より純粋に生きたものから咲いた花



         (「生きたものから」部分)





を捉えようと志す強固な「意志」

がひめられている。

 こういう塔氏の態度は、あたかも「一匹の

蜘蛛」が、蝶やトンボや蜂やその他、自己の

世界を通過するすべてのものを見逃さずに捉

えようとし、その為に自己の分身たる「繊細

な糸」を世界に張りめぐらし、そうして捕え

た一切のもの一切の現実を美醜にかかわらず

摂取し「胃の腑の中で消化させ」、それらを

養分として現実を捉えるための網目を更に一

層ひろげてゆく営みーーそのような「孤独な

作業」を続けているのに似ている。

 塔氏の作品に関して触れておきたいことが

もう一つある。それは表現の適確さとイメー

ジの燈明さ、新鮮さということである。引用

した作品からもそれは充分にうかがえると思

うが、次に幾つかの例をあげておく。





 叢の中で

 虫達は私の歩巾だけ移動する

 海の上にさざめく太陽と

 彼方の島影は

 ひとつの律動の中に溶け入り

 夏の入口で

 森の木々達は微笑みゆれていたのに

 そばへ行ってよく見ると

 それらはただ突っ立っている木



         ーー「夏」部分





 私は透明な意志の立体だ

 肥大していた皮膚は

 ないでゆく海のようになだらかになり

 血膿のしたたりは沈没した船みたいに

 膿盆の底で凝固する

 いつもそこで

 私は

 生きる力を約束されるのだ



        ーー「人体」部分





 それでも

 盲いた人は

 水たまりのあることさえ気付かず

 全く無頓着に歩いていた

 思い思いの

 心の深さをうつして

 不思議で

 危険な水たまりがあった

        ーー「水溜り」部分





 深く燈明なイメージを持つこれらの詩句

は、塔氏のものを見る眼の確かさ、世界につ

いての洞察の深さを表している。











 「詩学」 1969(S44)年 12月号



あたたかさ・純粋さ   (その4) [評論 等]





塔和子詩集「分身」自家版

 この詩集もまた土屋氏の詩集と共に、私が

今月読んだ二十冊程の詩集の中で最も感銘を

受けたものであった。この詩集には七十一篇

の詩が収められているが、一篇々々が新鮮

で、それぞれ独自の詩世界を展開しており渋

滞することがない。





   言葉の糸



 私は

 太陽の下でうけとめた現実をたべて

 胃の腑の中で消化させたものから

 おもむろに繊細な糸を吐く一匹の蜘蛛

 なにに向かってなにを毒し

 なにを浄化しなければならないという悲壮な希いはない

 ただありのままの私を吐露するだけだ

 私は言いたい言葉の中にだけ現れる

 私の吐き出す言葉の糸から

 不信を見るのも真実を見るのも

 あなたの目の底にある鏡の作用にかかっている

 私はただ

 あなたの鏡の反射で

 突然光る一本の糸をのこしておきたい

 あなたがどんなに無視しようとしても

 立ち止まらざるを得ないほど

 あなたをとらえる一本の糸を

 そのためにのみ

 孤独な作業をくりかえす

 まことに小さい

 一匹の蜘蛛





 七十一篇作品がとり扱っている素材は多

岐にわたっているが、塔氏の詩の主題は「存

在」についての究明と「言葉」に関する探索

という二点に要約することが出来るように思

う。「存在」究明の範疇には当然のことながら

自己の生死に関する問題が含まれているし、

自己の生死にかかわるものとして自然や、愛

の問題が見据えられている。「存在」や「言

葉」に関する探索、究明がライトモチイフに

なっているという点で、塔氏の詩は形而上的

傾向を有するが、しかし塔氏の詩世界は形而

上的特質を持ちつつそれらの傾向の詩がおち

いりがちな観念過剰の弊害からまぬがれてい

る。それは塔氏が世界、現実、存在等に関し

て一定の観念や見方をあらかじめ用意しそれ

らを手がかりとして対象を選びとってくる、

という態度を持たない、むしろそれとは逆

に、「現実をたべ」すべての現実を「うけと

め」、そして「消化させ」るという本来的な

詩人の態度を堅持しているがためなのであ

る。更に言えば、塔氏の形而上的傾向は「な

にを浄化しなければならないという悲壮な希

い」をあらかじめ用意することによって得ら

れたものではなく、あらゆるものを「胃の腑

の中で消化させ」そして「ただありのままの

私を吐露する」という氏の詩的営みが、究極

に於てもたらした特質なのである。

 念のため触れておきたいが、「なにを浄化

しなければならないという悲壮な希いはな

い」「ただありのままの私を吐露する」とい

うことは、決して詩的営みを自然発生的なも

のとして見ているのではないし、あらゆる

「私」を無自覚的に容認しているのでもな

い。「私は云いたい言葉の中にだけ現れる」

というストイックな詩句とてらし合わせてそ

れは考えられるべきであろう。











 以下、その5へ続きます。





あたたかさ・純粋さ   (その3) [評論 等]





    ある日



 片町線の放出(はなでん)駅で 白い杖をついた小学四、五

年生位の子供電車に乗ろうとしている 妹ら

しい子が目の見えない兄の手を引いて何やらこ

まごまと注意している この兄は この世に生

れてきて やさしい母の顔も たくましい父の

姿も 愛らしい妹の目も 明るい風景も なに

ひとつ見ることが出来ない やがて電車が発車

しようとしている この子の電車は きれいな

きれいな花をつんでいる。ぼくはこの電車をみ

たとき ぼくの体から げじげじが落ていった





 土屋氏の眼は対象にむかうと同時により深

く自分自身にむかう。土屋氏は、すべてのも

のを自己にかかわらせ、自分の魂を傷つける

ことなしには見ることも言うこともできな

い。土屋氏の作品が持つ特有の羞恥や人間的

あたたかさは、そこから生れてくるのであろ

うし、人間に関する素朴ではあるがゆるぎの

ない批評性もまた、これらの上に築かれたも

のだ。最後にもう一篇、土屋氏の作品を紹介

しておこう。





    ハト



 びっこの

 ハトがいる

 このハトをみて笑わぬ人は

 一人もありません 

 ハトは

 かなしい目で

 びっこの姿を 

 みつめている











 以下、その4へ続きます。



タグ:ハト ある日

あたたかさ・純粋さ   (その2) [評論 等]





    母



 ながいながい病気のとき かあちゃんはあたい

 にしょっちゅう言うた とうちゃんの言うこと

 よおく聞くんやで あたいが二年生になって

 桜の花が散るように かあちゃんは死んだ あ

 たいの手えとって 杏子 かあちゃんおらんか

 て 淋しがらんと気丈夫にもって とうちゃん

 の言うようにすんのやで あたらしいかあちゃ

 ん来たかて おかあちゃん おかあちゃん 言

 うて可愛がられるんやで



  しろい箱に入って
  
  おかあちゃんがゆく





 ここにうたわれている「おかあちゃん」は

次の詩に見られる「おかちゃん」のイメージ

に重なり、おそらくそのような女の生涯を生

きてきたのであろう。





 おかちゃんは明治四十三年九月二十日に生まれた

 農家の女ばかりの三人の二番目であった

 おかちゃんは両親の願いもむなしく

 片目で生れた

 両親は不便を感じたが仕方のないことであった

 おかちゃんは汽車にのった

 おかちゃんはかなしい汽車にのって走る

 ポッポーと一人ぼっちで走る

 レールはきまって一本しかない

 さびしい風景をみいみい走る



          (「おかちゃん」部分)





 これらの詩に限らず、土屋氏は博労や老婆

や屠殺される牛、乞食、老いた母、子供達、

びっこのハト、百姓、片目の女、盲目の子

供、労働者といったたぐいの人々を、ほとん

どこれらの人々だけをうたっている。しかも

そこには、政治的・思想的観点からして無理

にもこれらの人々をうたおう、うたわねばな

らないとするような作為的態度はみられな

い。これらの人々に対するいつくしみは、ほ

とんど土屋氏の生得のものであるように思わ

れる。生得のものであることはしかし、人間把

握、人間理解に於ける氏の無思想を意味しな

いし、人間把握に於ける土屋氏の政治的・社

会的な無自覚ないしは無関心を意味しない。

むしろ土屋氏は自分の生いたちや環境とのか

かわりの中で、人間に関する社会的・政治的

関心を次第に深めていき、深めていく経過で

生得の感受性はその本来的な姿をいよいよ明

らかにしていった、とみるべきだろうと私は思う。

 繰り返して言えば、土屋氏の作品に現われ

る人間は、例外なく貧しく、不幸であり、そ

の生き方は平凡である。そして土屋氏の彼ら

を捉える捉え方は、見かけ上決して政治的で

も階級的でもない。しかし氏の作品が私達の

心にもたらす感銘は、これらの人々のありよ

うや生き方を深く考えさせ、考えさせること

を通じて、究極に於て私達の関心を政治の問

題や社会の問題にむかわせるのである。例え

ば、





個としての各人が抱きこんでいる現実

の状況といったものも、各人によって異なる

ものであるから、自らが自らを変革していか

ねばならないということである。自ら始める

ということは、自己に還元していく消極的な

ものでなく、対他者に対して攻撃性を持った

自己変革が必要である。それは言葉の衝撃に

よる自己意識の変革である。



          (御沢昌弘詩集「胎児」あとがき)





、といった類の「思考」

が、書き手の主観に於ていかに「意識」的で

あり「衝撃」的であろうと、所詮は、生きた

「現実の状況」から遊離した地点で行われる

観念の中だけの操作であり、「言葉」による

こしらえものであることによって、私達の心

に定着することができないのとは反対に、土

屋氏の作品に現れる人間たちは私達の心に

永く住みつき、私達をしてそれぞれの自己変

革へと地道にむかわせる。











 以下、その3へ続きます。



あたたかさ・純粋さ   (その1) [評論 等]





   あたたかさ・純粋さ



土屋五郎詩集『さむさむ』(地帯社刊)

 詩誌「銀河手帖」の別冊詩集の一冊とし

てこの詩集は刊行された。同誌が刊行しそし

て私が今迄に読んだ別冊詩集は、総じて感銘

深いものが多かったが、土屋氏の詩集もま

た、生活する人間の汗と体臭と体温に培われ

た人間的なあたたかさを湛えている点で、読

む者の心に感銘を与える。

 現代詩は質的にさまざまな傾向をたどり、

表現技法も多岐にわたっているが、第一級の

作品は、つづめて言えば、作品の根底に人間

的な温かさを湛えているものである。心の温

かさは人間の純粋な魂にかかわりを持ち、そ

こから生じきたる。「才能」というものが文

学に必要であるとするならば、「才能」とは

人間の持つ純粋さであり、その多寡を言

うのであろう。心のあたたかさとか魂の純粋

さを言う場合、これらに関する本質規定が一

方ではやかましい問題になるだろうが、しか

し心のあたたかさとか純粋さとかいったもの

は、難解な抽象語の授用を得て初めて解明さ

れるような性質のものではなかろう。もっと

単純で明解なまぎれようのない心の働きであ

り、私達の胸に直接つたわってくるものであ

るだろう。





   にじ

 

 この街はにじの街

 街角に立っていると

 沢山の人々がぼくに

 にじをみせてくれる

 くつみがのおばちゃんが

 動いているカニを売っているおっちゃんが

 地下タビ姿のハチマキのあんちゃんが

 道路掃除のおっちゃんが

 日焼けした黒い顔で

 節くれの両手で

 尊いにじを売ってくれる

 ぼくはにじを買いに

 よくここに来ます





 ここにうたわれている「にじ」は、沢山の

人々がにじを見せてくれるという見方で人間

を捉えることのできる作者の心の美しさが、

何よりもよく表われている点で美しいのであ

る。人々が「尊いにじを売ってくれる」の

は、とりもなおさず、作者が「にじ」を買う

ことのできる心を持っているからにほかなら

ない。土屋氏は「尊いにじを売ってくれる」

沢山の人々の例として、つつましく働きそし

て「日焼けした黒い顔」をした人々をあげて

いる。そういう人々を対象とする点でこの詩

集は一貫している。











 以下、その2へ続きます。

   「詩学」 1969(S44)年 12月号



現代的と伝統的   (その5) [評論 等]





 右の二詩集の他に今月私が読んだもののう

ちでは、稲田さき子詩集「まち」と堀正幸詩

集「ブリキ屋の歌」に注目した。なお二、三

カ月前に読んで論評したいと考えたものに若

林肇詩集「地の傷」があった。これらの詩集

についても具体的に論評すべき責任を私は持

っているが、今月も紙幅をなくしてしまっ

った。そこで佳作名を挙げ、それぞれの詩集から

一篇ずつ引用し紹介することで私の責任の一端を

果したい。

 稲田さき子詩集……「わたしたちは神を持

たない」「蝶について」「ベトナムのうた」「母

のゆめ」「母に」「鳥の報告」「埋葬」「象」「落

日「地平の村」「象」「黒人兵のためのレク

イエム」

 堀正幸詩集……「がんがんや」「夏・はり

つけ」「夏・だんだら」「屋根のうえの夏」

「秋」「朝の掌」「この顔が」「墜ちる」「伊吹

山」「尻尾を噛む」

 若林肇詩集……「ぶどうの葉」「帰ってく

るもの」「地の傷」「春の堤」「果樹の憩」「屋

上」「五月」





   埋葬

             稲田さき子



 三昧屋への道は遠く

 真昼だというのにそのあたりは

 なぜか紫色にけむって

 墓掘り人は

 昔土葬したひとの骨と歯が

 くわのあいだからこぼれ落ちたと

 声高にはなした

 野辺送りのひとびとはそのために

 少し列をくずし

 あたりはいっそう紫色にけむった

 一年病んで死んだ母の骨は

 もろくくだけて

 あ この骨は

 すぐ大地にもどるだろう

 それから赤く

 やっぱりまんじゅしゃげは咲いた

 母のいなくなった家に

 もう産まれてくる子は居ず

 キラキラ光る滅亡の頂点で

 老いた父がゆっくりと

 子守唄をうたう





 夏・はりつけ

            堀正幸



 ぼくは

 まいにち 磔にされる

 トタン板と 太陽のひかりに挟まれて

 うしろから 灼きつけてくる太陽

 まえから はね返ってくる太陽

 今日トタン屋根のうえで

 太陽を 消してやった

 コールタールで 

 そのとき

 ぼくの影が消え

 ぼくも消えてしまった





  五月

             若林肇



 風に吹かれて

 あなたたちはむこうへいく

 髪を両手でおさえ

 しなやかに背をそらせ

 ふりかえりしな笑顔をみせて

 いつもこう五月は

 彗星のように近づいてきては

 おとめたちを連れ去る

 季節のすすみに

 おいていかれた大人たちが

 何かしきりに言いあっている。











   「詩学」 1969(S44)年 10・11月合併号



現代的と伝統的   (その4) [評論 等]





 深沢忠孝詩集「溶岩台地」(思潮社刊)





 浪振り 浪切る比札ふりて

 風振り 浪切る比札ふりて

 奥津鏡 辺津鏡に祈り

 渡り来し人々の記憶

 ことごとく奮いし王権の祭式



      (「伊豆志袁登売」冒頭)





 この作品のはじめには「天之日矛持渡来物

者、王津宝云而、珠二貫。……云々」という

「応神記」の一節が引用されている。一体、

現代に生きる私達がこのような言葉を用いて

表現しなければならない必然性がどこにあろ

うか。私は怠惰であるけれども一応は国文学

を専攻してきたし、現在も古文に触れる機会

は比較的多い。しかし右の言葉を十全に理解

することができない。概要はわかっても生き

たもの魂のかよいあうものとしては理解でき

ない。現代詩が一々注解を必要としたりある

いは一部の専門家や知識人に理解されるだけ

でよいわけはなく、そうである以上言葉は誰

にでもわかるものである方がいい。だいいち

作者自身原典に依拠したり調べたりして、こ

ういう表現を手に入れるのだろう。そうだと

すれば自己の感動と表現との間にすき間が生

ずる。

 深沢氏にしても三井氏にしても、伝統的な

ものへの志向、それの再確認及び伝統の正し

い継承と発展にこそ願目があるのであろう。

そのことは正しい。しかし伝統の継承とはこ

のようなものであろうか。あっていいだろう

か。言葉の問題に即して言えば、このような

言語表現を必然としたその時々の民族の血や

汗や涙や笑いそのもの、つまり言葉の内実を

みたしている生活感情や思考にこそ眼をむけ

それを批判的に継承すべきであろう。それは

古語の援用によらずとも、現代語によって充

分になし得る。

 深沢氏の作品のうち右のような作品はむし

ろ例外的なものであって、総じてこの詩集に

収録された作品は優れている。「独楽」「雨」

「上高地で」「稜線で」「溶岩台地」「野うさ

ぎ(1)」「同(2)」「春」「蝶」「列車」「埋葬」「仔

うさぎ」等の作品には、作者のものを見る眼

の深さが感じられ、作者の魂は美しく澄んで

いる。





   蝶



 その稲妻型のとびかたに ぼくは

 賛成しかねる

 それが神の摂理だ としても

 青い風吹く廃墟で

 ぼくの背丈ほどしか舞いあがらない

 開ききらない花に

 重たげに羽を休めて

 やがて
 
 もとの方角に悄れていく

 蝶





 深沢氏は「あとがき」で「最近の関心が古

代から日本の心、妣の国(・・・)へと向っている」と

書いているが、深沢氏の日本の心は、右に挙げ

た作品や次のような詩句の中でこそ質高く

結実するのではないか。





 ざざんぼう ざざんぼう

 父や母もそうだったーー同じく こうして雨にうたれて

 歴史の向うから 孤独を

 背負ってやってきたにちがいない



                 (「雨」部分)











 以下、その5へ続きます。



現代的と伝統的   (その3) [評論 等]





 この詩集収録の三十一篇の詩はすべて恋情

を直接の主題としている。





 待っていて下さいまし

 わらの草履に付くような火が消えるまで

 燠火を明してせめてはよるが明るむまでを欲しい

 わらの草履に踏むほどはかえす足裏から真直に白むよるを

 ほとほとと踏んでくるまでを。

 待っていて下さいまし

 ひとめあえば赤く火を移すことが出来る

 その火照りのほのあからみにあなたが立って待っていて下さいまし
 
 火が移るまで 

 いまは火が移って燃えるまでを。



                (「火が移るまでを」)





 三井氏の詩に表れた恋情は激しく、むし

ろそれは痴情といったものに近い。「生まの

肉」がうたわれ、「いのちを寄せる」ものと

してまた「追いすがる」ものとしての恋情が

うたわれている。しかしこれらの熾烈な恋情は

性存在にかかわる渡合が深いのにもかかわら

ず、きわめて抽象的思弁的な性格のもののよ

うに思われる。性存在そのものがそもそも抽

象的思弁的性格のものであるわけだが、三井

氏の場合には、これに加えて生の有限性に関

する認識が深い裏うちとなっているためであ

ろう。「はかなし」と観ずる認識をよりしか

と確認する為の手だて、ないしはそのような

認識の仮託として恋情がうたわれていること

にもそれはよっているだろう。あるいはこう

も言える。はかなさを自覚した三井氏は、そ

の自覚に基ずいて逆に生の充溢に対する期待

と欲求を深め、自己の実在感を強固なものに

していった。そして自己の実在を証しするも

のとして恋情にすべてを賭けていった。

 おそらくこの詩集にうたわれている恋情は

作者の観念の具象として顕現されたものであ

って現実のものではなかろう。生の充溢に対

する期待と欲求の大きさに比例して恋情に寄

せる期待も大きく深く、それ深く大きなも

のであれがある程、恋情に寄せた期待は裏切

られる。恋情は悲劇的な相貌を呈する。それ

故に恋情は熾烈でありながら、作者の魂は覚

めている。

 もう一つ私がこれらの作品に感ずることは

ここは表現されている情念なり情感なりが生

じきたった土台としての具体は、意識的に沈

められていてほとんどうわずみのようなもの

のみが表現されていることと、ここにある情

念や情感は、そのほとんどが「ひと息の息の

まに」表白されたものであることである。

「ひと息」に吐かれたことに於てそれは新鮮

であるけれども、しかし息を吐かせたところ

のものの実体は、「魚」「さくら」「ひかる君」

「盃」「火が移るまでを」「らん」「さくら」

等の諸作を除いては必ずしも充分に表現され

ていないし、初めから読者の理解を拒むよう

なわかりにくさがある。

 わかりにくさは、記紀の歌謡風のうたい口

王朝風のみやびやかな用語からもきている。

おそらく三井氏は伝統的世界への回帰を志向

しているのであり、そのための手だての一つ

としてこのようなうたい口や用語を駆使して

いるのだろう。しかし現代にあってはそれら

のほとんどが死語に類する。一般的に言って

そうであり、また氏の作品の具体に即してみ

ても氏自身の言葉としてよみがえっていな

い。近頃、上代語的語法やうたい口を用いた

詩を見かけるが、ひと頃フランス語をナマの

ままやたらに引用していた現象と同様、私は

これを理解することができない。例えば次の

詩集などにもそれが見られる。











 以下、その4に続きます。



現代的と伝統的   (その2) [評論 等]





 三井葉子詩集「夢刺し」(思潮社刊)

 三井氏は、あたかもこのような現代詩の一

般的傾向にさからうようにして、自分の魂の

裸身をうたっている。女としての性のかなし

さ・はかなさを執拗にうたいつずけてい

ると言える。





 雨だれを受けるたびに

 傾むく夢は

 傾むくたびの身の軽さをかなしんでいた。

 ふり腐れてゆくかなしみの

 裾も濡れてゆく

 雨だれのしずくのひとしずくのおもたさを

 わたしは連れてはゆけないけれども

 水の縁を越えるばかりのゆらめく部屋に

 ゆらめいて待つひとのひざのうえまで

 なにを置き残して帰りつく夢のままの世を。





 これは「雨だれ」と題する作品であるが、

「ゆめ」とうつつの境を変幻自在に出入りし

「世」を「夢のままの世」と観じ、そのよう

な「世」にあっては、うつつとして在る「部

屋」も「ひと」も「わたし」も一切が「ゆら

めいて見える、したがって身の「かなし

み」をたぐることを通じてしか、自己の実存

を確かめる手だてはない、とする三井氏の態

度を端的に表している作品のこれは一つと

みてよかろうと思う。三井氏の独特のうたい

口やイメージの色どりもここには備わってい

る。この詩集の冒頭に「赤まんま」と題する

作品があり、そこに次のような詩句がある。

「石段をみえがくれする遮蔽物を越えてはゆ

くと見えるばかりの/赤まんまの咲きがけに

/ひと息の息のまに/赤まんまのはな咲いて

いる。」

 中野重治はその詩「歌」の中で





 お前は歌ふな

 お前は赤ままの花やとんぼの羽根を歌ふな……すべてのひよわなもの

 すべてのうそうそとしたもの

 すべての物憂げなもを撥き去れ……





 とうたい、更に後年この作品

に触れて次のように書いている。「私がそこ

でそれらをかって歌わなかった仕方でうたっ

ているのを見ぬ云々」と。中野の提起した問

題は詳細に検討しなければならないが、三井

氏は「赤まんま」をまさに「ひよわなもの」

「うそうそしたもの」そのものとして、か

っての歌がうたったその内質と歌いぶりに於

て、もう一度うたおうとしている。自己の主

体に於てうたうことによって、ひよわなもの

うそうそとしたものとされたそれらが、確か

にそのようなものでしかありえないかどうか

を確かめようとしている。繰り返して言えば

三井氏は「ひと息の息のまに……はな咲」く

ものとしてそれらをうたおうとしている。

 三井氏はこの作品に於てのみならず「かな

しみ」とか「さびしさ」「ひそとして」「わび

て」「泣き重ねて」「嘆き」「ゆめまぼろし」

「切ない」「あわれ」といった表現をしきり

に用いているが、これらの嘆かいの底にはお

そらく、生の有限性に関する三井氏の認識が

あるのにちがいない。実在の諸相の根源に凋

落のさまを見てとり、すべてを移ろいゆくも

のの姿に於て捉え、はかなしと観ずる認識で

ある。この認識は伝統的なものであり、短歌

をはじめとするわが国の伝統的文芸の底流と

なった思潮であるし、ひと頃「短歌的抒情」

として否定されたものでもあった。それらを

承知の上で、むしろ承知しているが故にかえ

って三井氏はこのような認識に執しつずけて

いるように私には思われる。そしてそこに私

は三井氏のなみなみならぬ現代批判の姿勢

を感じとるのである。











 以下、その3へ続きます。



現代的と伝統的   (その1) [評論 等]





   現代的と伝統


 詩の原質であり、それ自体として本来自律

し、自己完結すべきはずのうたが、作者の観

念的な饒舌によって敷衍され或る場合には概

念的に記述される。そしてむしろ概念的記述の

部分に詩の批評性なるものを見、そこに重き

を置いて、詩の価値を評価する、といった誤っ

た傾向が次第に醸成されつつあるように思わ

れてならない。つまり詩の散文化が促進され

知らずしらずのうちに私達は、詩の原質たる

うたを水割りしてうすめ、作品の背後にある

沈黙を消し去り、読み手の創造作用を無用と

するまでに記述し尽し説明し尽してしまって

いる。詩がやたらに「情況」だの「告発」だ

の「崩壊感覚」だのといった現代的な借り衣

裳を重ね着し、読み手は現代むきの衣裳

を重ね着し、読み手は現代むきの衣裳のき

らびやかさに眼を奪われるといった有様が一

般化しつつある。詩の裸身は着ぶくれた衣裳

の下でやせ細り、読み手は衣裳模様に目移り

して自分で思考することを停止してしまって

いる。厚着をしている者にどうして現代の

「情況」などが肌を通してじかに感じとれる

だろうか。「告発」は俊敏な知的行為と具体

的な行動・実践を伴う。厚着して身動きなら

なくなっている者に、どうしてそのようなこ

とが実地に出来るだろうか。











 以下、その2へ続きます。

  「詩学」 1969(S44)年 10・11月合併号




 


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