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二冊の詩集   (その6) [評論 等]





 もう一つの不満を私はこの際述べておきた

い。それは例えば次のような表現に対して持

つ不満であり、これらの表現の裏にひそむ陳

腐な思考に対するものである。





 死を孕まないなにか もしそういう存在が ある

 とすれば それは もはや死ぬこともないが生き

 ることもないのだ



             ーー「日の闇・おまえに」部分





 在るということがかたちをもつことであれば「き

  ょう」はない

 けれども「きょう」は確かに在るというものより

  も在る

 在るということのふたしかさのゆえにさらにはげ

  しく在る



                  ーー「日の歌」部分





 「死を孕まない」云々に関して言えば、こ

こには物についての新たな発見がない。詩以

前の日常的認識に於てさえ至極あたりまえの

ことだ。あたりまえなものに眼をむけること

は、決して悪いことではない。しかしあたり

まえなものの中からさえ、新たな真実をひき

出し発見してくるのでなければ、詩にはなら

ない。「在るということのふたしかさのゆえ

にされにはげしく在る」という認識について

言えば、「在るということのふたしかさのゆ

えに」どうして「はげしく在る」ということ

になるのか私には理解出来ない。われわれは

詩人の眼をもって「ふたしか」なものの一切

を「たしか」なものにしなければならない。

「ふたしか」なままで(ましてやそれが要因

となって)物が「さらにはげしく在る」など

ということは決してないのである。先に引用

した「幻影」の中で、金丸氏自身、自分の片

側を擦過する「血だらけの負傷兵」を確かに

見たように、すべての物をわれわれは確かに

見なければならない。











 「詩学」 1969(S44)年 9月号











 以下、続きます。お待ちください。



二冊の詩集   (その5) [評論 等]





 金丸氏の作品には形而上的なものが著しい

のであるが、一方氏の形而上世界は氏特有の

抒情性によって色どられている。そしてその

ことが氏の作品に一種のうるおいを与えてい

るのであるが、しかし氏の抒情性は作品にと

って必ずしもプラスにのみ作用しているので

はない。形而上的主題の追尋を不徹底にさせ

る要因としても働いている。しかし考えてみ

れば、主題追尋における不徹底さの原因は、

必ずしも氏の抒情性そのものにあるのではな

いだろう。むしろそれは対象に対する洞察の

不足、対象の本質把握のあいまいさにかかわ

っているものと言わねばならぬ。対象追尋の

不足を抒情性で補ってしまう安易さに根本の

原因がある。





 樹梢を鳴らす

 風があって

 風には風の底があった

 その広さだけ砂地がのびひろがっていた

 日ぐらしの大乱声のなかを

 日よ

 あおいおまえの

 透明のなかを

 わたしは砂に足をとられながらすすむ

 ここまで来て

 ついに 
  
 「わたし」とはいったい何であったのだろう

 いつもふいにおのれをひろげるおまえに

 小鳥があおぐろい影をおとしてかすめる

 あおざめたわたしのような不遜よ

 わたしはゆえもなく海への広漠をよぎる



             ーー「夏の海」そのⅡ





 「わたしはゆえもなく海への広漠をよぎ

る」という優れた詩句をその一部に持ちなが

ら、この作品は全篇に流れるひ弱な抒情性の

ために「『わたし』とは、いったい何であっ

た」かの追尋をあいまいにしてしまってい

る。言うまでもなく、この作品は「その1」

と併せて読むべきものであるが、紙幅の関係

でここには引用できない。しかし「その1」

を読み併せてみても、私にはこの作品が中途

半端なものに思えるのである。











 以下、その6へ続きます。



二冊の詩集   (その4) [評論 等]





 金丸枡一詩集「默契」(昭森社)

 

 たしかに在って見えない

 かたちのようなものら





 これは「新・お伽噺その1」と題する作品

の冒頭の詩句である。これに類する表現はこ

の詩集のそこここに見られる。例えば次のよ

うな具合である。

 「遠くにあって ない/近くにあって 見

えない」<葉ざくら>「見えないおまえを描

きだそうと」<日の闇・おまえに>「在ると

いうことのふたしかさのゆえにさらにはげし

く在る」<日の歌>「だのに それは透明に

くるまれて見えない」<日の歌>「一個の卵

よりふたしかにかたちであるもの」<日の

歌>

 「たしかに在って見えないもの」への探索、

これがこの詩集を一貫する基本テーマで

あるし、そのような探索を通して金丸氏の関

心に常にあるものは「『わたし』とはいった

い何であった」か(「夏の海」)の解明、確認

である。この詩集でうたわれている多様な題

材はすべて、金丸氏の存在論的な形而上世界

に裏うちされている。





 幻影



 おまえが言う

 いっしんに野菜をきざんでいたら

 だれかがふっと外をよぎった

 でも だれもいなかった

 おまえは言う

 いっしんに編物をしていたら

 犬がわたしのよこをかすめて駈けた

 でも 犬なんかいなかった

 おまえは咳く

 でも なにかがいつもわたしのよこを駆けぬける

 あなたや犬や猫やが

 ほんとになぜだろう

 おれのかたがわをなにものかがいつも擦過する

 おまえやむすこたちであったりする

 血だらけの負傷兵であったりする





 この作品は本詩集中最も優れた作品であ

り、金丸氏の資質が遺憾なく発揮されてい

る。形而上的想念と抒情性がほどよくバラン

スをとって定着されている。











 以下、その5へ続きます。



二冊の詩集   (その3) [評論 等]





 ……ふと私は 私の 足もとに

 ひとつの名画を 発見した

 誰の 作品 なのか

 それは

 ひきいれられるような

 ファンタスティックな

 魅力を もってさえいた。

 大地に密着した

 いや

 それは大地自体が

 トワール として

 描かれたものであった。

 誰か そこに 

 ブラシ を あてたものなのか



          ーー「或る郊外」部分





 名は 形象する

 形象された 花々は

 その名の

 夢を みる

 絢爛な 名の花は

 絢爛な 夢を

 ささやかにして 敬虔な 名の花は

 ささやかにして 虔ましい 夢を

 密生した花々は

 その 夢を互に

 錯綜する

 絢爛な 夢と

 敬虔な 夢とは まじりあい

 生来の 姿を 喪失する

 名以前の 花々は
 
 形象されないままに

 抽象の花を 咲いては 散る



            ーー「花苑」部分





 更に私は北畠氏の次の短歌にも一種の絵画性を感じる。

 

 微熱あるままに紅茶をつづけてのみそれより薔薇の虫を殺せり



 一首から受けるものは「微熱ある」という

作者の状態、「虫を殺せり」という作者の行

為のきわだちよりも、むしろ「微熱」「紅茶」

「薔薇」という共通した色彩に色どられた言

葉がもたらす絵画的なイメージなのである。

素人考えだが、殺された虫そのものからも私

は一種の色彩を感じとるのである。

 北畠氏の絵画性はその作品に長所をもたら

したとみることもできる。星野氏の言う「ま

すます肥大化する頭脳とますます抹消化する

神経とのX線フィルムとして成立するとい

う」現代詩の「方向とはおよそ没交渉に書き

つづけられ、その結果として、「詩につい

ての全的な」ヴィジョンを把握できたという

面もあるのだが、しかし多面、その想念は

「少しばかりぼやかして、蒙昧な……シチュ

エイションに浮遊する」(著者「あとがき」)

ものという欠陥をもたらしてもいる。たしか

に現代詩は、「肥大する頭脳と末梢化する神

経」にわざわいされている。それを私はいい

こととは思わない。しかし、絵画からも音楽

からも離別して歩きつずけてきた現代詩の苦

渋にも私は思いをいたす。紙幅がないので要

約して言えば、詩と絵画は本質的には同棲で

きない。詩は本質に於て絵画を拒絶しなくて

はならないだろうし、絵画もまた本質に於て

詩を拒否しなくてはならないだろうと私は思

う。そういう意味で、新鮮なこの詩集の行手

にも大きな問題がたちはだかっている。











 以下、その4へ続きます。









二冊の詩集   (その2) [評論 等]





 したがって、そのような言葉の小集積ない

しは小集団としての各連は、連自身として独

立する渡合が強い。言い換えれば、各連間の

飛躍・断絶が著しくなる。飛躍・断絶は読み

手の想像力によって埋められねばならないわ

けだが、北畠氏の作品の場合も読み手の想像

力に依拠する渡合が強いのである。しかも北

畠氏の作品にあっては、読み手の想像作用が

進むにつれて、すでに読み過ごしてきた言葉

や連のイメージないし意味が、新たに展開さ

れる言葉や連のイメージないし意味と融合

し、そこで両者が浸透作用をおこすという働

き、つまり表現の展開、進捗につれて、読者

の想念なり情念なりを作品世界にむけて求心

的に拉致する働きがやや希薄のように思われ

る。むしろ読み進むにつれて各連が領する世

界は独立したものとして、そのイメージや意

味をきわだたせていくのである。これは氏の

発想や表現が流動的であるよりも空間的な性

格のものであることを語っている、と私には

思えるのである。こういう傾向は、現代詩一

般が多かれ少なかれ共通して持っている性格

なのだが、北畠氏の場合はそれが他に比べて

著しいのである。

 引用した詩「小鳥たち」についてみると、

この作品の主題は第二連の「還らぬものは/

かえらないのだ」という感慨にあるのだろう

し、その感慨の具象的展開として各連が配置

されているわけだが、この作品を読み終えた

あとでわれわれの心にきわだちよみがえって

くるものは、「還らぬものは/かえらないの

だ」という一種形而上的想念や思考ではな

い。「いくら啼いても/還らぬ」という姿に

於て捉えられた小鳥たちの姿、その「夕映え

に/つつまれて/木の枝に休」んでいる彼ら

のいわば絵画的な姿であり、彼らのとりまく

四周の「少しばかり/金色に」かがやいた風

景なのである。極論すれば「還らぬものは…

…云々」という想念は、落葉や、枝に休む小

鳥たちの姿にリアリティを与えるための一つ

のイメージとして表現されていると言えよう

か。そういう意味でこの作品の各連は、「還

らぬものは……」という想念にむかって流動

的に展開されているよりも、空間的に配置さ

れた静止的なものなのである。てっとり早く

言えば、これを絵の具に置きかえてなぞって

いけばそのままにして一つの絵画が出来上っ

ってくる、と言えるのである。次の作品などに

もその傾向がうかがえる。











 以下、その3へ続きます。



タグ:飛躍 断絶

二冊の詩集   (その1) [評論 等]





   二冊の詩集



 北畠公夫詩集「CROQUIS」(思潮社)

 「ここで気がつくことは、油絵の制作、あ

るいは絵画理念をモチーフとした作品が幾つ

も出てくるということだ。……これはこの詩

人がとりもなおさずひとりの画家でもあるこ

をを物語っている。……だが、この詩人の油

絵が比較的具象に傾むくのに対して、この画

家の詩は超現実風な趣きを呈している。これ

はおそらく、絵の具の空間的固定性と、言葉

の時間的流動性という、媒材の違いによるの

ではなかろうか。」

 これは、星野徹氏の跋文中の言葉である。

北畠氏の諸作品の基調に絵画理念を見ること

に於て、私はまた星野氏に同じく、北畠氏の

作品のモチーフが絵画理念に支えられている

と考えるばかりでなく、テーマそのもの、或

いはテーマを具象するための表現技法そのも

のの、更にヴィジョンそれ自体が絵画的で

あると私には思われる。空間的固定性、時間

的流動性という言葉を借りて言えば、北畠氏

の詩の「言葉」は、画家を兼務しない一般の

詩人の詩の「言葉」に比較して、空間的固定

的な性格がいちじるしいように感じられる。





   小鳥たち



 小鳥たち。



 いくら啼いても

 還らぬものは

 かえらないのだ。



 一枚の闊葉樹の

 葉が

 音もたてずに

 散ってゆく。



 少しばかり

 金色に あたりを

 かがやかせて



 小鳥たち。



 夕映に

 つつまれて

 木の枝に休もう。





 北畠氏の場合、一つ一つの言葉の持つ意味

や、言葉が領有するイメージは作品の中でか

なり重い役割を果している。北畠氏の場合に

限らず、すべての詩の言葉は、それ自体として

自律し完結していなければならないものであ

るわけだが、しかし、そうでありつつそれら

の言葉は、それらの言葉の集積の上に具現さ

れる詩世界にいったんは統合され解体される

ものであるだろう。そしてまさに自己の存在

を解体することによって、言葉は、リアリテ

イを確保し、自己を顕現することになるので

あろう。だが北畠氏の言葉は、あくまでも総

体の一部分、詩という宇宙の中の一小宇宙と

して、最後までその存在を主張しつずけてい

るように思われる。











 以下、その2へ続きます。

   「詩学」 1969(S44)年 9月号



鳥見迅彦詩集『なだれみち』など  (その6) [評論 等]





 「凍つる手に羽根摑ませて埋めしとや」の

追悼句などからは、死んだ少女の短い生涯が

はっきりと見えてくるし、少女をとり囲んで

いる人々の一つ一つの表情が見えてくる。

「百語り」の句にしても「うつし絵」の句に

しても「盲ひ女」の句「螢」の句「初泣き」

の句「手鞠児」の句にしても、背後に一つの

物語が暗示されているわけだが、それらの物

語や、物語を通して示された人生に対する泉

沢氏の眼はあたたかく、せつなさのようなも

のがまつわりついているようである。全くの

素人考えながら、私は蕪村的な世界を感じ

る。

 これらの句は表現技法上から言っても無理

なく詠まれており、そこから俳句本来の鋭さ

が獲得されてきたと思われるのだが、一方、

内容的にもまた技法の面でも意趣をこらした

ような作品は、それだけ句の質が低くなって

いると思われる。例えば次のような作品がそ

れである。





 氷解くる谷鋭角に曲りけり



 強飯(こはめし)やきさらぎの天かたく反(そ)り



 三月や雲の重さに背を病みぬ



 くさめして電工空をあるきだす



 ハレルヤを勢(きほ)ふ焦土の遅日かな



 滅亡の唄のごとくに鶯鳴きだす



 ユダのごとき影ら過ぎをり朝曇



 柳散るや楷書は太く下すべき



 基督に肖し息白く太きこと





 「強飯」と「天かたく反り」の結びつけ、

「雲の重さ」と「背の病」との結ぶつけに、

私は作為のあらわさを見るのである。効果を

計りすぎて句が品位を喪ってしまっている。

 私は泉沢の資質は、ここにはなく、初めに引

用した作品の世界にこそあると考えるのであ

る。











 「詩学」 1969(S44)年 8月号



鳥見迅彦詩集『なだれみち』など  (その5) [評論 等]





    泉沢浩志句集『風見鶏前後』

 「ここに収録した作品の大半は、さきの句

集『風見鶏』(一九五四年刊)の制作と同じ

時期のものである。Ⅰは戦時、Ⅱは戦後のほ

ぼ十にわたる作品である。」全文これだけ

の短い「あとがき」が、泉沢氏の句作に関する

いわば詞等として、私に与えられた唯一のも

のである。だが詞は作品鑑賞にとって必ずし

も必要ではない。それよりも、全くの素人読

みしか出来ない私の側にこそ問題があると言

うべきだろう。





 干す下駄に笹の陽炎移りけり



 風見鶏すこし巡りぬ花曇



 百語り春灯(ともし)みまたたける



 棄て煙艸かぎろひつつも消えにけり



 春泥や風の一ト筋かがやけり



 病める手のうつし絵淡し春灯



 戦遠し古りし夏帽目深にす



 盲ひ女の肩の兜も夕焼くる



 二の腕の入墨青し竹簾



 頬白の頬ふくらまし覚めゐた



 爽かや六分目のこす薬瓶

 

 凍つる手に羽根摑ませて埋めしとや(Y女逝去)



 眼帯のずれし隈より春惜しむ



 掌に溜める青き泪の螢かな(三井義一追悼)



 秋風やなにか翳りしひとところ



 別れても背に冬木影あるごとし



 初泣きやはやも母系の目鼻立ち



 手鞠児の片手はいつもふところに





 集中のこれらの作品を私は評価する。「す

こし巡りぬ」「風の一ト筋」「うつし絵淡し」

「古りし夏帽目深にす」「入墨青し」「頬ふく

らまし」「六分目のこす」「羽根摑ませて」「青

き涙の螢」「翳りしひとところ」「冬木影」「片

手はいつもふところ」等の表現は、それぞれ

の句の中で大切な詩句として重い役割を果し

ている。これらの句に於ける泉沢氏は物をそ

の微細な点に至るまでよく見ており、氏の繊

細な神経と清澄な美意識が充分に働いている

と言えるだろう。そしてそれら繊細な神経や

美意識の奥には、人間に対するあたたかな眼

が見開かれている。人間的なあたたかさはと

りわけ追悼句に端適な形で表われているが、

引用句中のいわば写生的傾向の作品からも、

ーー「陽炎」の移りゆきや「風見鶏」や「煙

艸」の消え具合からも、「頬白の頬」からも

私は感じることができる。











以下、その6へ続きます。




 

鳥見迅彦詩集『なだれみち』など  (その4) [評論 等]





 私が氏の第二、第三作品群として区分し

たものに見られる愛やエロチシズムも、一種

の明澄さも、結局は自己糾弾を自虐性の上に

得られたものーー「ぼく自身の孤独を遡行し

て」(探鳥行)得られ、「越えるべきものを

越え、帰るべきところへ帰ってきた」(小梨

平の」)ことによって得られたものである。

いわばそれとは、死に直面した遭難者が生還

の機を得、そうして改めて人間や自己の存

在、生きる意味について新たな発見をしてい

ったのに似ている。





 クララは藪にかくれる。

 草を踏む音が遠くなってゆき、やがて止む。

 そしてクララはけものに変身する。

 山中はしんとなる。

 ヤマバトが鳴く、

 ウグイスが鳴く。

 クララが藪から出てくる、

 すこし顔をあからめて。

 優雅なしなをつくって。

 けれどもクララはまだ半分はけものだ。



     ーー「白いけもの」部分ーー





 だが第二、第三の作品群に見られる平安

は、安易な日常性におちこむ危険性を孕んで

いるし、登攀行為が習慣化する危険を孕んで

いる。





 「たのむぜ」「いいとも」

 岩と空のあいだで交わす、きみらの

 合言葉はぶっきらぼうで簡単だ。

 霧と太陽が揉みあう空間を

 ひたすらにさかのぼる、きみらのゆめはいつもながら清澄だ。



      (略)



 踏破の成功を告げるコーヒーがN谷を横切ってエコーを返すとき

 みちたりてほころぶきみらの微笑は純潔無比だ。



                              ーー「登攀者」部分





 登攀者たちの「ゆめ」が清澄であり、微笑

みが「純潔無比」であることを私は疑わぬ

が、しかしこの作品はどこか本質的な点でひ

弱である。「純潔無比」が鋭角的な批評から

離れた地点でうたわれ、手放しのまま投げ出

されているように思えてならない。

 私は「山小屋への道のり」が、鳥見氏にと

ってどこまでも「罰のようにつずいている」

ものであってほしいと思う。「ようやくここ

までのぼってまいりました。/やすらぎのな

いこころは、けれども、出発のときとおなじ

でございます。」(「峠」)という、「出発のと

きとおなじ」「こころ」をもって、「すべて

を疑い/すべてをたしかめ/すべてを信じて

/難関と各地とのあいだをまさぐ」(「十分の

指のゆび」)りつずけることが、自己登攀者

としての鳥見氏にふさわしいことだと思う。











以下、その5へ続きます。

 習慣化する危険を孕んでいを。をいる、と思われるので変更しました。



鳥見迅彦詩集『なだれみち』など  (その3) [評論 等]





 岩壁の中途のななめにかしいだ空間で

 半分はまるで無抵抗の世界にのめりこみながら

 自分を縛り、そして自分を

 そこに吊るし



   (略)



 危険と後悔とのアンバランス。

 誤算と願望との葛藤。

 たえまなくゆれながら

 自分をゆるし、自分を罰する、凄惨な夜





         ーー「遠い夜」部分





 もし下が深い谷でなかったら

 自分が人間でなかったら
 
 こんなはずかしい命乞いを

 こんな醜いかっこうで、することはないだろう。





   ーー「谷」部分





 深い谷を下にのぞむ位置に居るという事実

は、しかし、登攀者としての或いは自己探求

者としての鳥見氏の意図的行為の所産なの

だ。自ら求めてそこへと自分を追い込んだの

であった。そして「もし下が深い谷でなかっ

たら」登攀それ自体が成立しない。その限り

に於て「もし……」という前提は実現不可能

な事である。鳥見氏は、自ら「自分を縛

り、そして自分を/そこに吊る」す、いわば

そのような「いやな位置」に自分を追い込む

ことによって、危険と後悔のアンバランス

状態に自分を立たしめ、誤算と願望との葛藤

を通じて「自分をゆるし、自分を罰し」、か

くして自己を検証しようとしているのであ

る。

 自己検証と自己確立への努力を基軸にし

て、鳥見氏は、「両眼を/ひらき、もういち

ど/人間へ戻」ろう(「岩と残雪のあいだ」)

としているのであり、そのためにこそ「こん

な醜いかっこう」や「関節の痛い身じろぎ。

くるしい嘔吐」を自ら選んだのである。「自

分が人間でなかったら」という述懐の内側に

はそのような経緯がひそめらえている。

 「なだれみち」即ち崩壊の危険に自己の存

在をさらし、さらすことによって逆に自己を

支えようとしているのである。崩壊から自己

の人格を救うためには、自らを崩壊にさらす

以外にない、というのが鳥見氏の信条のよう

である。

 自虐性は、自己を加虐者の立場に置くと同

時に、被虐者の立場にも立たしめるものであ

る、と私は書いたが、『けものみち』の場合

には、被虐者つまり弱者としてのけものたち

の側に身を置くことによって、被虐者として

の自己及び人間の行為を糾弾するという傾向

が、どちらかと言えば強かった。いわばけも

のたちに仮託して自己批評を試みたわけであ

る。それに対して『なだれみち』の場合に

は、直接自己自身を或いは自己の行為を糾弾

の対象としている。登攀は自己征服の為の、

つまり自分自身にむかっての登攀なのであ

る。その意味で鳥見氏の自己批評は一層深め

られたと言えるだろう。











以下、その4へ続きます。



タグ: 遠い夜

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